犬環鎖 ----- インカンサ----
小学校のころ、犬を飼っていました。
『ジョン』という呼び名の雑種の中型犬でした。
その当時のボクの家は、木造のセメント瓦屋根の、いわゆる典型的な沖縄式瓦家屋(ウチナーカーラヤー)で、やや高めの床下がありました。大人が這って入れるほどの床下は、家屋の修理のための木材や使わなくなった日用品の物置になっていて、土の地面のためか夏場でもひんやりした空間でした。
その床下がジョンの住処で、餌の時間以外は、一日中、グータラ寝そべっている犬でした。
---------------------------------
そんなジョンが、深夜に床下から這い出て、どこかに出かけているのを知ったのは夏の満月の夜のことでした。
昼間にスイカを食べすぎたためか、その夜、ボクは何度かトイレに立ちました。当時、トイレは外にあり、夜でも母屋を出て、庭先を横切りトイレに通いました。
家族が寝静まった深夜の二時ごろだったと思います。満月が天空高く煌々と照っていました。ふと、門柱の脇を見るとジョンの出掛ける後ろ姿が見えました。あのグータラのジョンが、意気揚々と出掛けていくのです。軽い足取りで、小走りで駆けていくのです。
ボクはなぜだかジョンの出掛け先が気になり、後をつけることにしました。深夜でしたが、不思議と怖さは感じませんでした。月明かりと街灯の明かりで、思いのほか明るい夜だったせいかもしれません。
ジョンを見失わないよう、三十メートルほど間隔をあけて後を付けました。気付かれると、ちょっとした探偵ゴッコがふいになるような気がして、ボクは塀沿いの闇に隠れ、電柱に身を潜め、足音を殺しながら、後を追いました。
深夜の街は、すべて闇に溶けたように明かりの洩れている家さえなく、物音ひとつしませんでした。遠くの車の音はもちろん、深夜放送のラジオの音さえ流れていません。月明かりだけの静寂が漂っていました。
---------------------------
家から二百メートルほど後を追ったでしょうか。
ジョンが周囲をキョロキョロ窺いながら、歩を止めました。集落はずれの、街灯の切れかかった薄暗い交差点でした。
しばらくすると、交差点の四方の闇から、音もなく犬数匹が集まってきました。野犬の群ではなく、どの犬も飼い犬のようでした。首輪をしている犬も何頭かいました。
あっけにとられたボクは、やや離れた電柱の陰から息を殺して様子をうかがいました。
集まった犬は、全部で10匹。10匹が交差点の中央で環をつくり、伏せました。まるで、サーカスのよく調教された犬のように規律よく円をつくっているのです。吠えるでもなく、うなるでもなく、ただ黙って伏せているのです。
リーダーらしき黒い犬が、ときどき周囲を警戒するようなそぶりで首を上げる以外、どの犬も黙って伏せていました。なにか重要な会合をしているようにも見え、誰かの葬儀のような重々しい雰囲気にも感じられました。
長く、重い沈黙の後、黒い犬がいきなり天空に向かって遠吠えを始めました。
釣られるように、隣の犬も吠え、ついには10匹が一斉に遠吠えを始めました。
犬というより、獰猛な狼か山犬のような遠吠えに思えました。
ボクは、怖ろしくなり、電柱から後づさりし、全速で逃げました。すぐ後ろを得体の知れないモノに追いかけられている感じがしましたが、振り返ることなく家まで逃げ帰りました。
--------------------------
翌朝、おばぁちゃんに昨夜のことを話すと、ひどく叱られ、二度としないように諭されました。
おばぁちゃんの話だと、あれは『インカンサ(犬環鎖)』というもので、犬とあの世をつなぐ儀式みたいなものだから、人が詮索したり見たらいけない、とのことでした。また、その家の不幸や災難を犬が代わって厄払いしてくれる儀式でもあるから、深夜に犬が出掛けたら後を追ってはいけない、とも。
--------------------------
その後、ジョンは相変わらず床下でグータラな毎日を過ごしていましたが、ボクは月夜のジョンを詮索することを二度としませんでした。
生物学では、発見されていない中間形の化石を「失われた環鎖」(ミッシングリンク)というそうです。
もしかしたら、人間が失ったり、忘れた去った「環鎖(リンク)」を、ほかの生き物は、今でも、ちゃんと持っているのでは、と思うのです。
2012年03月14日 16:30