梅雨の季節になると、深い水の奥から蘇るような体験を思い出してしまいます。
その日、ボクは沖縄本島最北端の国頭村・奥集落に向けて車を走らせていました。
三日前から梅雨に入り、あいにくの空模様。今にも降り出しそうな雲が低く重く垂れこんでいました。
いつもなら紺碧の東シナ海を左手に臨みながらの58号線でしたが、その日は、どんよりとした空が海面ぎりぎりまで下がり、鉛色の海が陰鬱にかすんでいました。昼間のはずなのに夕刻のような薄暗さでした。時々、小雨がパラパラ降る程度で、まだ本降りにはなっていませんでした。
那覇を昼前に出発し、国頭村に差し掛かった午後の三時ごろ、あたりは一層暗くなり、垂れこめた低い雨雲をつつけば一気にザッときそうな様相でした。
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国頭村の佐手集落を過ぎ、宇嘉公民館を越え、宜名真集落に入るころには雷と稲光が激しく、ほどなく豪雨になることは、間違いない状況でした。
「まいったな・・・」
ボクは、うらめしげに空を見上げ、ハンドルを握りなおしました。
前方に宜名真トンネルが見えたとき、ひときわ強い閃光の稲光と同時に滝のような雨粒が一気に落ちてきました。車の屋根を叩く雨音で、激しい土砂降りだと分かりました。アスファルトに跳ね返った水しぶきが視界を遮るほどでした。
ボクは、減速し慎重にトンネルへと入っていきました。
トンネルの中は一層暗く、すぐにヘッドライトを灯しました。対向車も後続車もありませんでした。
「やれやれ・・・。ちょっとラッキーかな、トンネルで・・・」
ボクは独りごとを口にしました。
荒天のせいなのか時間帯のせいなのか、さっきから人の気配はもちろんのこと、すれ違う車の一台も通っていません。
トンネル内は、外の激しい雨音とは裏腹にボクの車の走行音以外聞こえませんでした。闇に伸びたヘッドライトの光だけが見えます。少し怖い圧迫感と湿った静寂がトンネル内の闇を包み込んでいるようでした。
と、『ポシャ』と車の屋根に水滴が落ちる音がふいに聞こえました。
「・・・トンネルでも雨漏りするのかな・・・」
ボクは上を見上げましたが、走行しているうえ、天井は暗くて確認できません。
相変わらず対向車も後続車もありません。
再び『ポシャ』と雨垂れの音がしたかと思うと、今度は規則的なゆっくりした間隔で『ポットン、ポットン、ポットン・・・』と水滴がボクの車の屋根に落ちる音が聞こえました。
前方のヘッドライトに照らされたトンネルの天井には水の滲みも染みも見えませんし、水滴が落ちてくる様子もありません。
でも、確かに、『ポットン、ポットン、ポットン・・・』と水滴がボクの車の屋根を叩いているのです。走行中なのにです。
周囲は真っ暗でした。
ボクは怖ろしくなり、スピードを上げ、バックミラー越しに後方を見ました。
深い闇が広がっているだけでなにも見えません。
それでも、相変わらず、絶え間なく『ポットン、ポットン、ポットン・・・』とリズムを刻みながらボクの車の屋根を叩いているのです。
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水滴は徐々にテンポを速め、『ポットン、ポットン、ポットン・・・』と・・・・まるで、得体の知れないナニかが迫ってくるように感じられました。
ボクは焦りました。
トンネルの出口が果てしなく遠く感じられ、ひょっとして迷宮に迷い込み、出口がないのでは、という錯覚さえ覚えました。
水滴はますますテンポを速め、車の屋根の後方から前方に移動しているようでした。
「なんなんだよ、これは」
ボクの焦りと恐怖はピークに達しました。
得体の知れないナニかが、すぐにでもフロントガラスから覗きだすほど水滴が真上から聞こえるのです。
「やばい!」、心底そう思った瞬間、前方にトンネル出口の光が見えました。
ボクは、意識的に上部もバックミラーも見ず、前方の出口のみを凝視し、飛ばしました。
すぐそこに、ほんの少し視線を上げれば「得体の知れないナニか」が貼りついているように感じられました。見てはいけない「得体の知れないナニか」の気配がするのです。
・・・一瞬、ザッと車全体を叩く雨音がしたかと思ったら、ボクはトンネルを抜け豪雨の中に突入していました。
激しい雨音にかき消され「雨垂れの音」は聞こえなくなっていました。
バックミラーに映ったトンネルの闇が徐々に雨に煙って見えなくなるまで、ボクは何度も後方を確認しました。
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偶然ですが、ボクが奥集落に向かったのは宜名真トンネル建設工事に従事した方への聞き取り調査が目的でした。当時は難工事のうえ、水脈にあたって大変だったと聞きました。トンネル内は換気が悪く、後々胸を患った人もいるとも聞きました。
あの「水音」と工事に関連性があるのかボクには分かりません。
ただ確かなのは、水滴の正体が未だに分からないのです。あの水滴はいったい・・・・